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 昭和55年頃の益城古城園
 
 

 1975年(昭和50年)4月、インドシナ全域にわたった戦乱が終り、ベトナム、ラオス、カンボジアの三国が社会主義体制になると、近隣の国々に保護を求めて人々が脱出を始めた。

 ベトナム難民の多くは小さな船に多数乗り込み、長期にわたって南シナ海を漂流し、航行中の船舶に救助され、寄航する国に一時庇護を求めて上陸した人々(ボートピープル)である。

 日本では、1975年5月、9人のベトナム難民が初めて上陸し、以来1980年の1278人が最も多く、1992年までに約1万2千人が日本に上陸した。

 
 

 日本赤十字社は国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の要請を受け、1977年8月に最初の受け入れを行ってから、上陸した難民総数の44・3%にあたる4108人(1988年末時点)を日赤の施設で受け入れた。

  益城古城園は日赤熊本県支部所管の施設として1979年12月、元益城町立老人ホームであった建物に収容定員50人の施設として開設された。以来20回にわたり269人の難民(日本での出生者4人を含む)を受け入れ、1989年(平成元年)3月、9年4ヶ月の歴史に幕を閉じた。

今年で閉園20周年を迎えた益城古城園、そこを仮の宿とし、新たな土地へと旅立ったベトナム難民のその後を追った。

JR浦和駅東口を出てすぐのところに「港や。」はあった。暖簾をくぐるとトアンさん(日本名は皆川裕さん)がカウンター越しに笑顔で迎えてくれた。寿司職人のいでたちからはベトナム難民の面影はうかがえない。古城園に入所した時は9歳だったと言う。

「4日間、漂流していたそうです。でも母が手を引いてくれていたので怖くはなかった。」日本のマグロ漁船に救助され、家族で古城園にやってきた。「入所後しばらくして益城中央小学校の1年生に編入したんです。子どもだったからでしょう、毎日が楽しかった。」

 
 
益城古城園で生まれた赤ちゃん
 
 
入所式
   母親はトアン君ら子ども3人を連れて熊本へ定住し、県立劇場の清掃などで家計を支えた。「熊本の人たちには随分支えてもらいました。小学校高学年の時の担任の先生には、全てを教えてもらったと思っています。」

 中学校から埼玉に来てからは、随分苦労もあったようだ。「高校を卒業してからは朝8時から夜11時まで休日もなく掛け持ちでバイトをしました。その中で寿司屋の仕事が一番あっていたようです。」10年間寿司屋で修行をし、33歳の時に今の場所に開店し、今年で5年目になる。「落ち込んだ時には古城園のことを想いだしてパワーをもらうんです。そこが私の原点だし、忘れてはいけないことだと思っています。」

 最後に故郷への想いを聞いた。
「ベトナムへの想いはもうありません。今は故郷を聞かれたら熊本と言ってるんですよ。」と笑う。「ボートピープルのようなことは二度とやりたくありません。」真剣な表情と言葉にこれまでの苦労を垣間見た気がした。


  ベトナム難民は、母国や友人、時には家族とも別れ、小さなボートで荒海や飢えと戦い、命からがら日本に上陸し、縁あって古城園を仮の宿として生活し、その後、新たな定住先へと旅立っていった。古城園では日赤熊本および施設職員のみならず多くの方々の献身的な支えがあった。


 
 

 施設の運営にあたっては、言語、生活習慣、環境の違いなどから、様々な問題が持ちあがった。しかしその都度、 地域の方々や関係者の善意に支えられ、 難民全員を無事送り出すことができた。

 地元との交流イベントも難民たちにとって大きな励ましとなり、心の安らぎや支えとなった。古城園にかかわった多くの人々が「言葉は通じなくとも、誠意は必ず通ずる」との思いを深くしたという。

 ボランティアの方々が里親として難民の子弟を引き受けていただいた実績は、日赤の諸施設の中で最も多かった。 また地元学校関係者の並々ならぬ努力によって、難民子弟に対し貴重な就学の機会を与えていただいた。日赤熊本でも、広く県民に善意の寄付を呼びかけ、223件約930万円の義援金が寄せられた。

 
 

子供の頃のトアンさん(中央下の黄色服)

 
かつてのクゥイさん(中央)
 
 
現在のトアンさん
 
現在のクゥイさん夫妻
 

 葉桜の緑がまぶしい川越の教会ではベトナム語のミサが続いていた。月に一度、ミサ終了後のひと時が埼玉に住むベトナム人たちの交流と情報交換の場になっている。聞けば先ほどミサを主宰していたベトナム人神父もボートピープルだったという。

クゥイさん(南越貴一さん)と奥様のラムさん(千春さん)は友人達との挨拶もそこそこに取材の時間を割いてくれた。「脱出は幅3M、長さ9Mのボートに72人が乗り込みました。50時間の漂流でしたが、水がなかったのが一番辛かった。それでも私達は幸運だったんです。」脱出したボートピープルは約170万人に上るとされているが、漂流したまま海の藻屑と散った人、あるいは海賊に襲われて行方不明になった人たちも数知れない。

二人は偶然同じ船に乗り合わせたが、互いを知り合ったのは古城園へ入所した後だった。「私達の原点は古城園です。二人が古城園で出会ったのも運命だと思います。日本語にはずいぶん苦労しましたけど(笑)。」二人は1983年に結婚し、1992年に川越でリサイクル事業を始めた。「初めは一年持つかと思って始めた事業でしたが、なんとか軌道に乗って今では従業員も10数人雇っているんですよ。」とラムさん。

クゥイさん夫妻は折りに触れて赤十字への寄付を続けているという。「今あるのは皆さんの善意のおかげだと感謝しています。スマトラ津波災害やパキスタン地震でも義援金をさせていただきました。これからもできるだけ続けたいですね。」

 昭和の終わりを見届けるかのようにその役目を終えた益城古城園。そこでの9年有余にわたるベトナム難民支援事業は、日赤熊本県支部の国際活動のひとつとして、後世に残る事業である。今どれだけの人がかつて熊本にベトナム難民が暮らしていたことを憶えているだろうか。古城園を離れてそれぞれの地に定住したベトナム難民たち。彼らが20年という歳月を超えてもなお熱く語ってくれた古城園や熊本との遥かなる絆の物語は、熊本の地に連綿と続く赤十字精神の一端を改めて私たちに教えてくれた。

 
   

益城古城園跡は現在、木山城址公園として
整備されている。
玄関前の楠だけが今も変わらず緑豊かに枝
を広げている。


謝辞:取材および資料の提供に当たっては、血
   液センター小路洋一さんにご協力いただき
   ました。

<参考文献>

◎益城古城園のあゆみ
  (ベトナム難民収容援護事業報告書)
        日本赤十字社熊本県支部編・発行

◎漂着の国で:あるベトナム難民の記録
            熊本日々新聞社編 葦書房

 
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